平氏、源氏の武士団は最初、院や摂関家、貴族に使われるだけの存在でしたが、清盛や義朝の時代になると、武力・経済力を背景に実力にふさわしい地位を要求するようになりました。武力で清盛に対抗できる勢力はいなくなり、ついには武士としては初めて最高官職の太政大臣にまで登りつめました。
後白河と清盛との結びつきをよくしたのは、清盛の義理の妹で滋子(後の建春門院)存在でした。清盛は後継者づくりにも準備を進め、政治力と軍事力を同時に備えた実力者として地位を固めていきました。
清盛は、日宋貿易に魅力を感じ、自ら陣頭を仕切り富を得ましたが、憲仁を天皇と即位させた後、重病を患い、出家し法王となりましたが、そのまま院政は続けられました。高倉天皇となった憲仁に入内した清盛の娘・徳子の間に子供が生まれれば、外戚としてさらに影響力をふるうことができるという絶頂期でもありました。