後白河法皇と平清盛の蜜月時代は長くは続きませんでした。権威・権力の分担もうまくはいかなくなりました。彼らの権力は軍事力に根ざしたものでしたが、後白河は、この構造を理解できずにいました。藤原成親の代理人が延暦寺領の神人と紛争を起こしたときも、平重盛は再三の要求にも延暦寺を敵にまわしたくないと応じないでいました。その後、鹿ケ谷の陰謀が発覚し、後白河と清盛の間の亀裂は深まっていったのです。
後白河は、延暦寺と平家の中を裂きたいと、謀叛人追補という名目で清盛に出動させ、比叡山攻撃を飲ませましたが、蔵人多田行綱の密告により、鹿ケ谷の陰謀が発覚し、比叡山攻撃は実現しませんでした。事件処理は、清盛の手によって進められました。