富士川合戦とは、平安時代後期の治承4年10月20日に駿河国富士川で源頼朝、武田信義と平維盛が戦った合戦のことをいいますが、実際の主導権は甲斐源氏で頼朝は後方支援として動いていたと見られています。頼朝は、常胤らに今は関東を固めるべきと言われて止められていました。
源氏側の兵力は4万余騎で、平氏側は逃亡者が続出するなどして2000余騎としか集まりませんでした。「吾妻鏡」によると、水鳥の羽音に来襲と勘違いした既に戦うことに喪失したいた平氏軍が大混乱に陥ったというエピソードもあります。
平氏の健在を示そうと、合戦中、重衡軍は興福寺、東大寺をはじめ多くの神社に火を放ち焼き払ってしまいました。それが災いして、寺社勢力は完全に平氏の敵となってしまいました。
後に、清盛が病に伏したとき、「仏罰」ともいわれたのでした。