強大な権力を振うようになった、平清盛・一族に対する不満は積み重なり、鹿ヶ谷事件は未遂に終わったものの、日本全土の「打倒平氏」を目指す勢いはますます強くなっていきました。
源平合戦の火蓋を切ったのは、「治承・寿永の乱」でした。一般にこの戦いは、以仁王及び同年の頼朝の挙兵から、寿永元年(1182年)頃からの平家・頼朝・義仲による三つ巴の勢いを得て、元暦2年(1185年)の壇ノ浦まで6年を指すものです。
治承・寿永の乱は、源平だけの争いではありませんでした。反乱は、北陸、畿内、四国、九州の神社・領主勢力にも広がりました。平氏に厳しい抑制をされていた在地勢力の不満もまた募っていきました。最終的には、頼朝による鎌倉幕府という全国にわたる統治組織を生むことになりました。