保元の乱のきっかけは、多大な権力を握っていた鳥羽上皇の死でした。少しずつ均等が崩れ、後白河天皇は清盛らを起用し、不満だった人物崇徳上皇、藤原忠実・頼朝らの排除に動いたのでした。力をつけた武士の武力を、上皇や天皇、貴族間の抗争の解決方法として使ったのが保元の乱でした。武将の献策取り入れた方が勝利し、そうでないものが敗者となりました。
平信範の日記「兵範記」によりますと、源義朝が200余騎、源義康が100余騎、平清盛が300余騎だったとあります。卑怯な戦法と言われていた夜襲での襲撃でした。辰刻頃(午前8時)にようやく大勢が決まり、義朝、清盛らが白河北殿に放火し、後白河勢の勝利が確定しました。
崇徳上皇は讃岐に流刑、頼長は白河殿から逃げ出す時に源重貞が放った矢が突き刺さり、その傷がもとで亡くなりました。復讐を恐れて崇徳上皇の武将達は、源為義や平忠正ら、親族が後白河にいるものも例外なく斬首刑に処せられました。